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芸能人の連続した不祥事によって失われるもの

芸能人の連続した不祥事によって失われるもの


4月6日現在、榊英雄・木下ほうか・園子温と立て続けに映画界で活躍する人らの性加害が報道され、世間を賑わせている。時代は変わったのだなあと思わずには居られない。

深夜ラジオをよく聴いていたが、芸能界とはこのような不祥事のような感じが日常的なものなのだと想像していた。今日採り上げられるような不祥事は、一昔前ならば公共の電波で日常的に笑い話としてちょくちょく耳にするようなことだった。

アメリカの映画界も同様で、先日アカデミー賞でのウィル・スミスの平手打ちが世間を賑わせたが、アメリカという国はあのようなマッチョイズムこそがアメリカたらしめているのだと考えていたが、それは正に過去のアメリカであり、ドナルド・トランプの退場と共に雲散霧消したのかもしれない。

少し前ならよく病めるアメリカ、などと言われていたもので、それは過去から比べて正常さが失われてしまったということなのだろうけれど、今や病んでいる、もしくは正常である、というようなことさえ果たして真剣に考えられているのか疑わしい限りだ。

ウィル・スミスのアカデミー賞でのスピーチは心をうった。正直なところ、あのような行為が良いのか悪いのか、僕にはよく分からない。法律的には悪いのだろうし、ウィル・スミスのような影響力のある人間が暴力行為に及ぶことは悪いことなのだろうし、クリス・ロックがちょっと訴えるだけで1,000万円くらいの賠償金額になる、みたいなこともどこかで見たが、それらを鑑みても、ウィル・スミスのアカデミー賞でのスピーチは、現代において有名性を獲得した人間がどれ程までに生きづらいのかが痛いほど伝わってきて、僕などは有名性の欠片もありはしないから心の底から理解できるわけではないのだけれど、日本の不祥事が明らかになってから私も私もと次々に被害を訴える、その明らかに深刻性が感じられない訴えに比べると、ウィル・スミスのスピーチは、ネイティブに英語を理解できているわけではない僕のようなものさえ心を打たれた。

成功するとどうしても有名になるわけだが、昨今の世の中の流れは有名性の獲得への多大なリスクを継承し続けているようにさえ感じられる。表立って人間が成功して有名になることに夢見ることをリスクだと感じられるような世の中とはいかがなものなのだろう。誰もが匿名性が担保された、安全圏でのみ、世の中に見つからない程度に成功を目指すのか?それしかないのか?とても寂しい。

過剰であることが問題になるのは当然かも知れないが、過剰さの中にこそ人間のドラマがある。一般人が過剰であることを問われるのはある程度致し方ないのかもしれないが、芸能の世界に生きる人間まで過剰であることで排除されるようになると、一般人と変わらないのではないか。一般人と変わらない芸能人とは一体何なのだろうか。特にその辺の人と変わらないような、ドラマ性に乏しい人たちが芸能人としてふるまうようになるとすると、芸能人とは一体何なのか考えてしまう。

もちろん、誰でも簡単に配信できるようになったことと無縁ではないだろう。昔は特殊な人間しかテレビに出たりすることはできなかったが、今では逆にありきたりの行為となり、誰でもできるようになって、逆に目立つことの方が難しくなった。

と考えると、なぜやたらと芸能人の不祥事が目立つのか、人間のドラマ性というか、神性とでもいってもいいようなものを消し去るためにあえてやっているのではないか(宗教弾圧なんかと似たような手法で)、といったようなことさえ考えてしまう。

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