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人は”驕”らなければどこまででも成長するものである。

人は”驕”らなければどこまででも成長するものである。


こんにちは。普段は旅の話題が多いですが、今回は旅先で気づいたちょっとしたことを文章にまとめてみました。
いつもよりは自己啓発チックな内容ですが、よろしければ最後までお付き合いください。
 
この文章は人生初の名古屋で書いています。
 
47都道府県をめぐり終えて、唯一回れていなかった大都市圏が名古屋市。
 
愛知県は何度も訪れたものの、名古屋だけはなぜか最後になってしまいました。
 
久しぶりの「新しい街を見た」という感覚。地下鉄もバスも電車も何もかもわからない。
 
路線図を片手に格闘しながら観光しています。
 

”知った”という罪

 
さて、なぜこのお話をしたかというと、”知った”・”体験した”という経験が自分に与える影響についてお話をしたかったからです。
 
まず、前提として「知る」ということはとても大切なことであり、人生において重要な経験ですが、「知る」という行為でインプットされたものが「知識」に変わった時、動的なものから静的なものに変わってしまうという”変化”が生じるという事実があると考えています。
 
つまり、なにが言いたいかというと、
 
「知る」の時点でインプットされたものが、「知識」という形で固定されてしまうということです。
 
ということは、自分が「知った」ものを上書きしない限り、自分の「知識」は頭打ちになってしまうということ。
 
これって恐ろしくありませんか?
 

”知る”は”知らない”の入り口

 
先ほど、日本の47都道府県を回ったお話を冒頭部分に書きました。
 
なぜ私がこれを書いたのか。それは、3年前47都道府県踏破を終えたときの感情を常に心の中に大切にしまっているからです。
 
47都道府県踏破をする前は、
 
「周りきったら自分の見識がもっと広がるのだろう」
 
そう思っていました。
 
でも、実際に達成してみると知らないことが増えただけ。
 
県単位で踏破しても、全市町村を回ったわけでもない。
 
どこかスポットを巡ったからといって、その背景にある歴史を理解した訳でもない。
 
ここで感じたのは、「自分が知らないことはこの世に無限にある」ということ。
 
それはなにも地理や歴史だけではない。生きていく上での考え方だって、この世に出回る定理だって、まだまだ知らないことだらけ。
 
でも、僕がもし47都道府県踏破を終えたときに
 
「日本の隅々までとてもよく理解できました!」
 
と終えてしまっていたら。
 
きっと、なにも知らないまま、あたかも自分は知ったかのような口をきいて、何かを得たつもりでその後の人生を上部だけの優越感で生きていたでしょう。
 

探究に終わりはない

 
よく、人生は長い旅に例えられます。
 
ですが、これは事実であると僕は考えています。
 
旅は、未知の場所へと自分が進んでいくこと。人生だって同じですよね。
 
だからきっと、僕たちは”旅”という非日常に”人生”を投影して擬似体験しているのでしょう。
 
それをマクロの視点に置き換えたものが人生という長い旅。
 
自分自身が、あらゆる目的地を目指して日々考え、悩み、喜び、進んでいくということです。
 
そのプランを決めるのは自分自身。明日なにを始めたって、それは誰にも止められないはずなんです。
 

自分の目的地は自分だけが知っている。

 
僕は、人生の中で”目標”という言葉をよく使い、そして日々意識しながら生きています。
 
例えば、10年後の自分がどうなっていたいか。
 
それが億万長者だったら、その要素を分解して、そのために明日なにをしたらいいのか考えながら生きる。
 
そういうことを繰り返しています。
 
その中には、新しいことを”知る”というプロセスも含まれていて、とにかくいろいろな人と話し、学び、旅をし、自分の知らないことをどんどん取り入れ、
 
「明日はどんな自分がいるのだろうか」
 
と考えながら生きています。
 

驕るということ

 
人は極論、単純な生き物です。
 
新しいことを経験したら人に話したくなるし、新しい考えを学んで自分が成長したと感じたら、周りの人を見て
 
「アイツは遅れてるな」
 
と思うこともあると思います。
 
それがダメなわけではないんです。でも、それは自分が驕っているかもしれない=つまりは知識が頭打ちになっているかもしれない
 
ということの気づきでもあります。
 
今の自分から見たら、確かにその「アイツ」は遅れているかもしれない。
 
でも、もっと違う景色を見ている人から見たら、「アイツ」を遅れていると感じているあなたが遅れていると思われているかもしれない。
 
そう考えると、、、、
 
視点は果てしなく広がることを目の当たりにするはずです。
 

神の視点にはなれない

 
どんなにどんなに学んだとしても、それが人の優劣や高低を決める材料になるとは全く思いません。
 
でも、新しいことを学ぶことによって視野が広がり、視座が高くなるという事実は確かに存在します。
 
視座が高いから偉くはない。でも、視座が高ければもっともっと多面的に物事を捉えることができる。
 
人はどうあがいても、神の視点には届きません。
 
でも、死ぬまで謙虚であり続け、そして学び続ければ、いつか自分が天に登る頃にはそのくらい高いところから物事を捉えられるようになるかもしれないですよね。
 
だったら、
 
「自分の考えが正しい」
 
と思って、学びをやめてしまうより、そして偉そうに人に語る前に、
 
「自分の考えとは違う何かがあるかもしれない」
 
と思い続けて生きていた方が、結果的に幸せになれるのではないかな。
 
そう思うから、僕は人生という旅を続けるし、この地上を歩くという旅も続けるつもりです。
 
 
 
名古屋市の矢田公園という場所のベンチにて。

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