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人間は「選んではいない」全て「充足理由律」がなすがまま

人間は「選んではいない」全て「充足理由律」がなすがまま


人生とは「選ぶ」ことの連続。


例えば「高校受験」「大学受験」「就活」でどこに入りたいか?
それを考えて、さまざまな「選択」をしてきた経験が少なからずあると思う。

小さいことなら「今日何食べよう」とか。




生きることは「選び続けること」なのだ。

そう信じてきたのではないだろうか?




しかし我々は「本当に選んでいるのか?」
少し、そのことを考えてみようではないか。
ということで今日は「本当に我々は選択しているのか?」という問題を深掘りしていきたい。



例えば「キリスト教」ではこんな教えがある。
「全宇宙の運命は全て、神の計画通り遂行されている」というものだ。
つまり、我々が自由に「選んでいる」つもりになっている、さまざまな「選択」
これらは、神の予定をなぞっているに過ぎないという考え方だ。


これを「予定説」などと呼んだりもする。
別に覚えなくてもいいが、覚えていた方が、タメになるかもしれない・・・。

例えば、理不尽に「不幸」な目に遭うこともあるだろう。
その時に「神様なんていない」と嘆くこともあるかもしれない。

でもそれは「神がいない」のではない、その不幸すらも「神の計画」であり、我々にはその真意がわからないからこそ、理解すらできないだけなのだ。

これが「宗教」的な意味合いでの話だ。



さて、ではこのテーマを今度はSF方向から深掘りしていこう。
それが「時間」についての考え方の一つ「充足理由律」という話だ。

これも先ほどの「予定説」と近い話になるが、ぜひ覚えておいて欲しいところ・・・。


この「充足理由律」という考え方だが、これは全ての事情には「理由」があるというものだ。


例えば落ちている石を適当に投げたとしよう。
その石が10メートル飛んで、1メートル転がる。
この時、石の飛び方、転がり方には全て理由があるのだ。

この投げた時の気象状況や石の形などなどで、実は投げる前から全ての結果は決まっているということとも言い換えることができる。




もう一つ例を出そう。
無目的な散歩をしているとしても、そのルートには理由があるという話だ。

例えばお腹が減ったからコンビニに寄る、通りを渡ろうとしたが車の往来が激しくて断念した。
忘れ物をしたから家に帰るなど、実は全ての行動には「理由」があり、一見「選んでいる」ように見えた行動全てが「こうなるように決まっていた」ということだ。


宇宙の歴史・時間が全て何もかもが密接に関わり、まるでパズルのようにガッツリとハマってしまい、あらゆる結果に他の可能性は一切ない。
全てが必然だと考えるのが「充足理由律」だ。


そう考えると虚しいかもしれないが、よく考えれば「必然」だったのかもと思える出来事があるのではないだろうか?



人生は本当に「選ぶこと」の連続なのか?

本当は「宇宙・神」という大きな何かに決定づけられたものではないのか・・・。

そんなことを考えると、夜眠れなくなるのでオススメです!!


*ちなみに、この考え方と逆なのが、「多元宇宙論」「パラレルワールド」だ。
これらは、「右にいく」「左にいく」というような「選択」によって、それぞれの世界が、分岐して存在しているという考え方もある。


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