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頭脳戦ロボットアニメ――『アルドノア・ゼロ』批評

頭脳戦ロボットアニメ――『アルドノア・ゼロ』批評


アルドノア・ゼロ 69点
 
 2014年に第一期、2015年に第二期が放送されたアニメだ。
 第一期の第一話、第二話、第三話の脚本を虚淵玄が担当している。
 本作の最大の特徴は、頭脳戦である点だ。地球側の量産機が、特殊な技術を用いた火星側の機体の特徴と弱点を見抜き、知恵と戦略で倒していくところが、ほかのロボットアニメにはない革新性を生んでいる。
 だからこそ主人公の界塚伊奈帆は感情をほとんど表に出さない冷静沈着な人物造形になっていて、違和感なく頭脳戦を繰り広げられるように設定されている(敵の火星騎士が間抜けすぎるきらいはあったが)。
 第一期はその路線を継続していたが、虚淵玄が離れた第二期からは迷走し始める。あくまでも人間ドラマを描こうとして、頭脳戦の要素が薄れてしまうのだ。界塚伊奈帆は、アナリティカルエンジンを搭載した義眼を移植することで、持ち前の頭脳にプラスしてチート能力が劇的に上がりすぎてしまうし、そもそも火星側の機体との戦闘が少なくなってしまった。そもそも人物造形もストーリー展開も、どこかで見たことあるものばかりなのだから、頭脳戦がなければ、それこそガンダムとはじめとする先行作品のロボットアニメとほとんど差はないのだ。
 界塚伊奈帆はその性格ゆえに第一期の序盤からほぼ中身は変わっていないし(ゆえに本作は界塚伊奈帆の成長譚して成立していない)、スレインはとにかく非モテをこじらせてるだけだし、アセイラムは色んな男たちのもとを渡り歩いて命がけの「ローマの休日」を過ごした挙句、一番社会的ステータスのあるクランカインとくっつくし。ライエとかレムリナとか、掘ればおもしろくなりそうな人物もほったらかしだし。
 あと、戦記物なのに主要人物が、敵側も味方側も全然死なない。特に第一期のラスト、死んだと思った人が全員生きてました、というくだりは、ひどく興ざめだった。
 このあたりも、虚淵玄が最後まで脚本に関わっていたら違っていた気がする。『魔法少女まどか☆マギカ』も、虚淵玄が脚本を離れた『マギアレコード 魔法少女まどか☆マギカ外伝』は月並みなダークファンタジーになってしまうし、『PSYCHO-PASS サイコパス』も、虚淵玄が脚本を離れた第二期以降は物語における問題提起が弱くなる。『アルドノア・ゼロ』もそのパターンといえるだろう。
 

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ポップカルチャー評論家
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