子供はアンディとボニーだけじゃない「トイ・ストーリー4」
子供はアンディとボニーだけじゃない「トイ・ストーリー4」
「トイ・ストーリー4」は賛否両論分かれているそうだ。
欧米では最高の興行収入を記録し高評価だが、日本では「ウッディが子どものためのおもちゃじゃなくなってしまったのが寂しい」「完璧な終わり方をした3に蛇足を付ける必要あったか?」って人が多いらしい。
視聴のきっかけは山田玲司のヤングサンデーと岡田斗司夫のチャンネルでトイ・ストーリー4が特集されていたこと。両方とも大絶賛だった。
ラスト近くからボロボロ泣いてしまった。
年々心が死んできて(エンタメへの感度が下がってきて)フィクションに触れてもあんまり心動かされなくなってきていたのだが、トイ・ストーリーはアンティークショップを脱出後、アンディたちが移動遊園地に行くあたりから既に涙腺がやばかった。
ので、私はトイ・ストーリー4は断然肯定派だ。ヤングサンデーと岡田斗司夫の影響は否めないがたぶん双方見ていなくても感動していた。
3のラストで「大事にする」って約束したのに破るな!とボニーにお怒りの人もいたが、相手は五歳児だ。しかも保育園の体験入学に行ったばかりだ。
そんな小さい子を「おもちゃを大事にする約束を破ったな!」と責めるのは酷だし、キリスト流に言えば「罪のない人間だけ石を投げよ」で、ボニーの不義理を責められるのは彼女と同じ年頃におもちゃを粗末にしたことない、あるいは贔屓したことない人間だけだ。
私は自分が5歳の頃のことをまっっったく覚えてないが、お気に入りのおもちゃはやっぱりあったし、興味がないおもちゃは散らかして見向きもしなかったはずだ。
どうでもいいが、人間が物心付く年齢は8歳前後らしい。それ以前の事は大抵ボンヤリとしか覚えておらず、5歳当時に好きだったアニメやおもちゃをハッキリ覚えてるという記憶力の優れた人はむしろ少数派なのではないか。
当時の記憶が抜け落ちているにしろ現在の性格を省みるにおそらくはボニーの如くおもちゃを贔屓し散らかしていた(はずの)私は、彼女を責める気がまったく起きなかった。
そして本人や周囲に悪気や非がなくとも、彼や彼女、あるいは私やあなたが必要とされなくなる日はいずれ必ずくる。
体力の衰えでも他の理由でもなんでもいい、「一生」「ずっとこのまま」の幸せなんて現実にはあり得ない。
トイ・ストーリー3はなるほどおもちゃとしてのウッディにとっては最良のエンドだが、1・2・3とシリーズを見続けた人の中では、ウッディは喜怒哀楽を備え、挫折や嫉妬を克服して成熟した1人の人間としてのキャラクター性を獲得しており、その為4において「主人に帰属するおもちゃではない、自立したキャラクターとしてのウッディが選んだ結末」を描く必要があったのではないか。
そう、だれも悪くない。
ボニーもその両親も、ボニーに愛されるフォーキーやほかのおもちゃも悪くない。
どんなに頑張っても選ばれず報われず見向きもされない、そんな経験はおそらく誰にでもある。
世の中努力が正しく報われるように機能していれば生き易いが、そうじゃないから皆生き辛さや息苦しさを抱えて病んでいる。
ここで重要となるのが4の悪役、ギャビー・ギャビーだ。
製造工程の手違いでスピーカーが内蔵されず、そのせいでお喋りできない不良品としてアンティークショップに飾られ、自分を迎えてくれる理想の女の子をずっと待ち続けていた少女人形。
ギャビー・ギャビーがマニュアルを読みこみ、戸棚のガラス越しにハーモニーを見詰めてお茶会の練習をするシーンは涙なしには観られなかった。
求めよされば与えんと主はいうが、求めても与えられなくなった時、自ら手に入れようともがくことが間違いであろうはずがない。
私はどうしてもギャビー・ギャビーを憎めない。本作で一番共感し同情したキャラクターと断言できる。
世の中はどうしたって理不尽だ。
ボニーやアンディのように望まずとも山ほどおもちゃを与えられる幸運な子供がいれば、貧困やその他の理由で欲しくても貰えない大勢の子供たちがいる。おもちゃと友達になるチャンスを最初から奪われている子供たちがいる。
それはギャビー・ギャビーが製作工程の手違いで、あるいは単なる不運でスピーカーを内臓されなかった悲劇とよく似ている。
本人には全く非がないにもかかわらず、たまたまそうなってしまったせいで予めチャンスを奪われる理不尽。
世界中すべての子供たちにおもちゃと友達になるチャンスがある。
無限の可能性にあふれた子供たちは本来どこに生まれどんな風に育とうが、皆がウッディやバズのようなかけがえのない相棒を得ることができるはずなのだ。
ウッディがボニーのもとを離れる決断をしたのを裏切りとは思わない。
彼はもう十分に主人に尽くした、友達としての役目をはたしぬいた。
私はボニーをけっして薄情な子とは思わない。その証拠におもちゃを乱暴に扱ったりはしないし、使わないおもちゃをクローゼットにしまうときも「ばいば~い」と別れを告げている。
ただただ乱暴で薄情なだけの子供なら飽きたおもちゃにわざわざ声などかけない、フォーキーをなくした時の反応を見るにむしろ人一倍繊細で感受性が豊かな子といえる。
世界は広い。
そして子供はボニーとアンディだけじゃない。
望まずとも沢山のおもちゃを与えられ、おもちゃと友達になるチャンスに恵まれたアンディやボニーの他に、移動遊園地で親とはぐれてひとりぽっちで泣いてた女の子だっているし、お金がなくて自分だけのおもちゃが買えない子供だっている。
ボニーのもとを巣立ったウッディやボーたちが、移動遊園地の行く先々でそんなひとりぽっちの子供たちの友達になるのだとしたら、これは最高のハッピーエンドじゃないか?
おもちゃとして最良のエンドを描いた3を見た後に4が必要だったかと疑問視する声も理解できるが、私の中のウッディは人間以上に人間臭く、自分より性能の優れた新入りを妬み、そっちに関心が移れば取り返そうと悪あがき、恋人に褒められればデレデレとでれ、大事な仲間のピンチには必死の形相で見苦しく走り回っていた。
そんな彼が1人のキャラクターとして決断を下した。
おもちゃとして尽くしに尽くし、ボニーとアンディに良い思い出を与え、ボニーの関心が移ったら外へ目を向け、今度は他ならぬ自分の足で新しい友達を、自分が幸せにできるたった1人の、そして皆の中のかけがえのない1人でもある出会うべき子どもをさがしにいく。
ハーモニーに拒絶され「愛されたい」期待を粉みじんに打ち砕かれたギャビーギャビーが、ウッディたちに後押しされ迷子の女の子を助けるシーンは涙がとまらなかった。
私たちは居場所がない居場所がないと何かと嘆くが、そんなの当たり前だ。
居場所とはふわふわした共同幻想でしかない架空の概念。
自分の弱さを甘やかしてくれる心地よい人や場所やモノを便宜的にそう呼んでいるだけであって、どこかのだれかにただ与えられるのを待っているだけの居場所なんかに何の価値もない。
子供は成長しやがて大人になる。
そうしておもちゃは忘れられる。
もちろん忘れないで大事にする人もいるだろうが私は忘れるのが悪いことだとは思わないし、おもちゃをしまったクローゼットを開かなくなること、あるいは段ボールに詰めて捨てることだって責められまい。
なら忘れられたものに価値はないのか?
捨てられたものに価値はないのか?
否、ある。
作りに行けるのだ、さがしにいけるのだ、何度でも。
求めた人間から求められなくても、与えてほしい人に与えられなくても案外そこらじゅうに出会いは転がっているし、ただの抽象概念でしかない居場所に自分を縛り付ける意味は全然ない。
ハーモニーにポイ捨てされたギャビー・ギャビーがその後ひとりぽっちで泣いている女の子に笑顔で迎え入れられたように、アンディからボニーへ譲られ、ボニーの手を離れたウッディにだって新しい出会いが待っているはずだ。
おもちゃは人の為に生まれてくるが、人の為だけに生きる必要はない。だれもだれかの許しなく好きに生きていい。
少なくともトイ・ストーリーはそういう世界だし、ボニーに飽きられたらもう終わり、という風に現実を描かなかったのはピクサーの誠実さと受け取った。
ウッディは1・2・3と映画の中で生き続け成長し続けた。
数多くの仲間、時には敵との出会いや別れを通し一個の人格を備えたウッディは、おもちゃとしての存在意義を失っても絶望せず、アンディやボニーの向こうにいるまだ見ぬ無数の子どもたちに目を向ける視野の広さを持ち得た。
おもちゃが自分らしさを求めたってなにも悪くない。
これまであんなに子供たちに尽くしてきたのだから、恋する人と再会し、夢を追いかける決断をしたウッディを応援したいと思った。
アカウントを作成 して、もっと沢山の記事を読みませんか?
この記事にコメントをしてみませんか?