
ボイストレーナーへの道のり ⑦ トライ&エラーの日々
ボイストレーナーへの道のり ⑦ トライ&エラーの日々
【週に1回、4レッスン】が、最初のスケジュールでした。
パニクらなくていいように、音楽学校にボクの方から「レッスン少なめで」とお願いしました。
毎回ビビりながらだったレッスンも、だんだんと慣れて来ました。
早く一人前のボイストレーナーになろうと、いろんな先生のレッスンを受けてみたり、ボイトレ本を買い漁ったりしました。
当時はあまり種類が無く、ほぼ声楽(クラシック)用のものでした。
内容も、
当時はあまり種類が無く、ほぼ声楽(クラシック)用のものでした。
内容も、
・腹式呼吸(腹筋系のトレーニングを含む)
・響き(どこに当てるとか回すとか)
・口の開け方
・舌の位置
・姿勢
といったものがほとんどでした。
読み終わって、なんとなく分かったような気持ちになっても、結局、何も変わりませんでした。


そんな中、僕がレッスンでやっていたことは次のようなことです。
①生徒さんと同じ声を自分で出してみて、その時の身体の変化をしっかりと感じる
②自分の声と生徒さんの声を真似した時とで異なる感覚がどこかを探る
③その違和感がどうすれば良くなるのか考える
④それを生徒さんが実現しやすいイメージに変換して、生徒さんに声を出してもらう
⑤トライ&エラーで、生徒さんの声が良くなる方向を探る
そんな訳で、自分の声と感覚が基準となっていました。
それは「場当たり」的なものでしたが、生徒さんの声を、自分の感覚を総動員して「感じ切る」ということでした。
何らかのメソッドに沿ってレッスンすると、生徒も講師も「分かりやすい」反面、メソッドのフイルターが外せなくなる時があります。
まだこの時は、納得できるメソッドにきちんと出会っていなかったというのもありますが、このボイストレーナーになりたての時期に「何が本当か」と何度も何度も問い続けたことは、メソッドに頼らず自分の頭で考える事ができるようになる大きな原動力となってくれました。
①生徒さんと同じ声を自分で出してみて、その時の身体の変化をしっかりと感じる
②自分の声と生徒さんの声を真似した時とで異なる感覚がどこかを探る
③その違和感がどうすれば良くなるのか考える
④それを生徒さんが実現しやすいイメージに変換して、生徒さんに声を出してもらう
⑤トライ&エラーで、生徒さんの声が良くなる方向を探る
そんな訳で、自分の声と感覚が基準となっていました。
それは「場当たり」的なものでしたが、生徒さんの声を、自分の感覚を総動員して「感じ切る」ということでした。
何らかのメソッドに沿ってレッスンすると、生徒も講師も「分かりやすい」反面、メソッドのフイルターが外せなくなる時があります。
まだこの時は、納得できるメソッドにきちんと出会っていなかったというのもありますが、このボイストレーナーになりたての時期に「何が本当か」と何度も何度も問い続けたことは、メソッドに頼らず自分の頭で考える事ができるようになる大きな原動力となってくれました。
アレキサンダーテクニックの方は金銭的な理由もあり、あまり追求することなく終わりました。
一方、『操体法』は、それを学ぶために2年間東京に通いました。
巻上公一さんというユニークなアーティストが書かれたエッセイの中で「操体法を使って声を整えた」というのを目にしたのがきっかけでした。
講座の参加者は医者か柔道整復師の方ばかりで、医学的な知識がまるでないボクはついて行くのがかなり大変でしたが、その後の声や歌に対する考え方に大きな影響を及ぼしました。
「どうすれば症状が良くなるのか身体に聞く(身体が知っている)」
という考え方は、自分の価値観にとても良くフィットしました。
という考え方は、自分の価値観にとても良くフィットしました。
また、この時期に出会ったN先生(故人)にも深く影響を受けました。
僕はN先生のことを尊敬していて、ボイストレーニングの知識というよりは、人間としての在り方とか音楽に対する姿勢を教わりました。
言葉ではなく、ただN先生の存在を通じて教わりました。
本当に感謝しています。
僕はN先生のことを尊敬していて、ボイストレーニングの知識というよりは、人間としての在り方とか音楽に対する姿勢を教わりました。
言葉ではなく、ただN先生の存在を通じて教わりました。
本当に感謝しています。
そうこうしてる内に、少しずつ出来ることや知識などが増えてきました。
でも、生徒さんをちゃんと導けないことは、どうしても起こってしまうのでした。
どうしてゆけばいいのか、何を指針に進めてゆけばいいのか、いつも答えを探しているのは変わらないままでした。
どうしてゆけばいいのか、何を指針に進めてゆけばいいのか、いつも答えを探しているのは変わらないままでした。

さて、ボイストレーナーとして働き始めた頃は、週一日の稼働しかありませんでした(自分の申し出のせい笑)
残りの日は居酒屋でバイトをしていました。
「あ、先生、こんな所で何してるんですか?」
とバイト先で生徒と出くわさないようにと、毎日祈っていました。
とバイト先で生徒と出くわさないようにと、毎日祈っていました。
習ってる先生が居酒屋でバイトしてたら、がっかりするに違いありません。
おそらく、当時はボクだけが音楽学校の講師陣の中でただ一人バイトをしていたと思います。
「何とか音楽でもっと仕事を増やしていけないかなぁ」
親には「30歳までに音楽で喰えるようにならなかったら辞めて普通の仕事をする」と言っていました。
しかし現状は、レッスン代が月に5万円。ジャズ関係のお仕事が年に1~2回あるかないか、という感じでした。
バイトの方が断然稼ぎが多くて、とても音楽で喰ってるなんて言えるようなような状況ではありませんでした。
バイトの方が断然稼ぎが多くて、とても音楽で喰ってるなんて言えるようなような状況ではありませんでした。
………そんな時、知り合いのピアニストから連絡が入りました。
ピアニスト「植村って、〇〇新聞取ってる?」
ボク 「取ってないけど、何?」
ピアニスト「新聞広告にミュージシャン募集って音楽事務所の求人が載ってたで」
ボク 「まじで!」
ピアニスト「オレ、受けてみようと思ってるんだけど、植村どうする?」
ボク 「行く!行く!ボクも受けたい!うわぁ、マジでめっちゃ嬉しい!ほんまありがとう!」
と、「渡りに船」な話が舞い込んできました。
「これは、何としてでもモノにしなければ!」
そして、これ以後、JAZZの歌の仕事は違う、全く新たな歌の仕事の世界へ入ってゆくのでした。
「これは、何としてでもモノにしなければ!」
そして、これ以後、JAZZの歌の仕事は違う、全く新たな歌の仕事の世界へ入ってゆくのでした。
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