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ボイストレーナーへの道のり ⑫ ボイスラボ、誕生。

ボイストレーナーへの道のり ⑫ ボイスラボ、誕生。


収入の3つの柱(ボイストレーナーへの道のり⑩参照 )が安定してきて、いろんな出会いがあり、31歳の時に結婚しました。
 
ボクの人生にとってこの結婚こそが一番大きな出来事だったのですが、それはまた別に機会にしたいと思います。
 
そして、男の子が生まれました(今は3児の父親です)。

 
その息子が大きくなってきたある日、
 
「なぜパパは家に居るのに一緒に遊べないの!」
 
と自宅でのレッスンを嫌がるようになりました。
 
大きな声で「パパー!」と泣き叫んだりするだけでなく、レッスン中に電子ピアノや照明の電源を消したりするようになりました。
 
さすがにレッスンにならず、「別日に振り替えてもらえますか?」と生徒さんに帰ってもらうこともありました。
 
 
息子をキツく叱って黙らせるという選択もあったのかもしれません。
 
でも、ボクは外でレッスンするしかないと考えました。
 
ボイスラボを立ち上げるきっかけとなったのは「成功したい」という野心的な動機からではありませんでした。

 
最初は、家の近くで安いワンルームの物件を借りようと思いました。
 
そこを自分で防音工事してレッスンをしようと考えていたのです。
 
でも、
 
 
「どうせやるなら、人の集まりやすい所で思い切りやってみたい」
 
 
という気持ちが生まれてきました。
 
自宅レッスンの場所を変えるだけという消極的なものではなく、ボイストレーナーとして、より大きなステップを踏み出したいと思うようになったのです。
 
 
近場も含めていろんな物件を見ました。
 
色々と見た中で一番ピンと来たのが、今のボイスラボのある所でした。
 
テナントの雰囲気がとても気に入りました。
 
一目惚れでした。
 
 
でも、立地が良い分、一番家賃も高く、結局初めに想定していた家賃の2~3倍くらいありました(最初の想定が低すぎました笑)。
 
当たり前ですが、家賃が高いというのはとても問題です。
 

それでも、そのテナント以外では、ボクには先のイメージが描けませんでした。
 
 
そのことを奥さんに相談しました。
 
 すると一言、
 
 
「気に入ってるところが一番いいと思うよ」

 
と背中を押してくれました。

 
それから何度も考え直した上で「やっぱりここしかない!」と思い、今の場所に決めたのでした。
 
ビジネスにあまり知識・関心のなかったボクにとって、それはまさに博打を打つようなものでした。
 
明確な事業計画などあるわけはなく、軌道に乗るのか、失敗して借金まみれになるのか、全くの未知でした。
 
ビジネス的にはもっと違った「賢い選択」があったと思います。
 
でも「ここでレッスンをしたい」と感じる自分の感性を信じて、今の場所に決めたのでした。
 


オープン当初、「新しい生徒さん」はなかなか集まりませんでした。
 
最初の半年くらいはとても厳しい状況でした。
 
でも、当時はまだボイストレーニングに特化した音楽教室が少なく、それが幸いでした。

ホームページのSEO対策(ネット検索で上位表示されること)など、特に何もしていないのに、
 
『京都 ボイトレ(ボイストレーニング)』
『大阪 ボイトレ(ボイストレーニング)』
『神戸 ボイトレ(ボイストレーニング)』
『関西 ボイトレ(ボイストレーニング)』
 
といった検索ワードの全てで、上位表示されていました。

関係のない「大阪」や「神戸」などでも上位表示されたということが、競合相手がとても少なかった証拠です。

いつも思いますが、ボクはとてもラッキーだったと思います。


徐々に問い合わせが増え、1年もすると忙しくて大変になっていました。
 
朝の10時から夜の21時まで11時間休み無しだったり、朝の9時~や夜の~22時など、枠を追加してレッスンを行うこともありました。
 
音楽学校のレッスン、音楽事務所の仕事(結婚式とホテルのバーで歌う仕事がありました)、そしてボイスラボのレッスンと、3つの柱で、とても忙しい毎日でした。
 
朝、ボイスラボでレッスンをして、音楽学校に移動してそこでレッスンをして、またボイスラボに戻って夜までレッスンをして、深夜はホテルに行って歌を歌う、というような日々でした。
 
とても忙しかったですが、とても充実していました。
 
音楽学校や事務所の後ろ盾がなくても、「植村典生」というボク個人の看板だけで仕事が成立していることがとても嬉しかったのです。

 
そんなある日、
 
ホテルのバーで歌っている最中に急に声が出なくなってしまいました。

病院に行ってはいませんが、おそらく過労だったと思います。
 
ビックリしましたが、たまたまボク以外にもボーカリストがいる現場だったので、歌はその人にすべて任せて、何とか事なきを得ました。

幸い、長引くことはなく、数日で声が元に戻りました。


そして、
 
「全ての仕事をこのまま続けていくのは身体的に無理だ。」
 
と判断しました。


悩んだ結果、これまで本当にお世話になった「音楽学校」と「音楽事務所」の両方を辞めることにしました。
 
急な決断だったので、迷惑を掛けてしまうと、とても躊躇しました。
 
でも、どちらも温かく対応してくれました。
 
本当に感謝です。
 
 
そんな訳でボクの仕事は、ほぼボイスラボのレッスンだけになりました。

3つの柱が、1つの柱になってしまいました。

 
ボクが37歳のことでした。
 
 
 
ボイストレーナーへの道のり ⑬ へ続きます。

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同志社大学法学部政治学科を卒業。数々のプロミュージシャンを輩出しているAN MUSIC SCHOOLのVOCAL科を特待生にて修了する。
AN在学時から数々のステージを重ね、メジャーアーティストのコーラスやCMのレコーディングなど 多岐にわたる活躍をする。
同音楽学校にてボイストレーナーとしてのキャリアをスタートした後、自己の歌唱技術の研鑽の意味も 含め、全国の優れたボイストレーナーに師事し、 独自の発声のノウハウを構築。現在に至る。
発声の医学的なアプローチも深めており、より安全で効率の良い発声メソッドを今も探求している。
レッスンは歌のみにとどまらず、役者、声優、 アナウンサー、などといった「声の表現」全般 の指導へと広がってきており、多くのプロフェッショナルたちをはじめ、多くのボイスユーザーたちから絶大な信頼を寄せられている。

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